不慮の事故
海は様々な表情を見せる。
仕事に行き詰まりを感じたり、悩み事にぶつかると、決まって夕方の海岸に足が向く。
大きく西に傾いた太陽を正面から浴びてキラキラ輝いている海は、どこからどう見ても平和で優しい表情だ。
海を見ているだけで、何故か不思議と心が癒されてゆく。
悩んでいたこともちっぽけに感じられ、明日に向かってふつふつと力が湧いてくる。
そんな海はいつも私に元気をくれるけれど、時々気まぐれに意地悪をすることもある。
登志夫は同じダイビングスクールで学んだ友人だった。
同じ時期にダイビングを学んだ仲間は年齢も性別も出身も違う6人。
そんな中で最年長だったのが登志夫。
生真面目で繊細な性格の持ち主だけど、かなりそそっかしい彼は海洋実習も遅れぎみ。
なんとかぎりぎりでライセンスを手にすることが出来た彼だったが、私は彼の頼りないところになんとなく愛着さえ感ていた。
そんな彼と気の合った私は、よく二人でウインドサーフィンにも出かけましたが、一緒に参加したあの苦い思い出のダイビングツアーを境に連絡が途絶えてしまったのです。
一泊二日のツアーに参加したスクールの仲間は3人、私と賢治、そして登志夫。
賢治はダイビング暦3年のかわいい彼女とラブラブで参加です。
必然的に私と登志夫がバディーを組むことになりました。
バディーというのは、そう、海に潜る時に安全のために作るペアーのこと。
二人とも初心者、ましてやそそっかしい登志夫とバディーを組むのは少し不安がありましたが、海に潜るとそんな不安はすっかり消え、目の前に広がる美しい世界にしばし陶酔。
水中から見上げる空は、まるで太陽の万華鏡のように光を放っている。
時間を忘れ小魚たちの群れを追いかけていくと、色とりどりの魚たちが次々に出迎え、私たちを魅惑の別世界へと連れて行く。
1日目は気分良く3回の海中散歩多を楽しんで、夜には海の話に花が咲いた。
そして2日目、最初のダイビングの時にその事故が起きました。
そう、私はこの事故で友達を一人なくしてしまったのです。
といっても、誰も命を失ったわけではないのですが。
登志夫と一緒に潜りはじめて20分ぐらい経った頃、夢中で魚たちを追いかける私は視界の端に妙な動きを感じた。
そちらに顔を向けると手足をばたつかせパンニックになっている登志夫がいた。
何が起きているのか。
一瞬にして無数の事故の可能性が頭を巡る。
次の瞬間、彼の手がエアー切れサインを示しているのに気付き、慌てて彼の体を支え自分のレギュレーターを彼に咥えさせた。
しかし、パニックの彼は無我夢中でそれを掴むと一気に水面に向かっていく。
危険な急浮上。
レギュレーターを掴まれたままの私も引きずられてどんどん水面に。
必死で彼の体を捕まえ停めようとしたけれどほとんど効果はなく、もうだめかと心に絶望感が広る。
不慮の事故。
私の周りの時間がスローモーションになり、走馬灯のように支離滅裂な記憶が脳裏をよぎる中、必死に学んだことを思い出して肺にたまった空気を吐き出す。
怠れば気圧の差で肺の空気が膨張して肺を破壊してしまう。
運良く無事に浮上したものの、私は胸の奥にかすかな血の匂いを感じていました。
死の危険が眼の前にあったのも事実でした。
登志夫に対する不信感と怒り。
私はこみ上げる感情を抑え、船べりで嘔吐する彼の介護をしましたが、態度に出ていたのかもしれません。
生真面目な彼はその事故で気まずくなったのでしょうか、海に対する恐怖もあったのでしょう。
ダイビングショップにも顔を出さなくなり音信不通になってしまいました。
あれから10年。
彼は今何をしているのでしょう。
どこかで不慮の事故に遭っていないでしょうか。
今でも海を見るたびに彼のことを思い出します。