海で出会った人
「みんな楽しそうだね」
彼はそう言ってゆっくり私のほうを振り返った。
街のウインドウが鮮やかな赤と緑に飾られる頃、
私がヘルパーとして働く介護施設に新しい患者さんが家族と一緒にやってきた。
「あれっ。ここの方でしたか」
車椅子を押して部屋に入ってきたのは、
3日前に帽子を拾ってくれた彼だった。
父親の入所を前に、家族の思い出作りの旅行中に岬に立ち寄ったのだと教えてくれ
た。
彼は週末に面会にやってきては楽しげに近況を話して過ごす。
水のぬるむ季節には施設から見える海岸まで車椅子を押して散歩に行くようになっ
た。
彼はヘルパーとして付き添う私に、もともと父親から聞かされた話だと笑いながらた
くさん海や魚の話をしてくれた。
父親は、それを聞いているのかどうか定かではないが、
時折にこやかな表情を見せては海を指さそうとするかのように手を動かした。
まだ高齢という年齢ではなかったが、脳梗塞で倒れ、
一命は取り留めたものの、身体の麻痺が後遺症として残ってしまったそうだ。
彼は毎週毎週必ずやって来ては、そうして父親と時間をともに過ごす。
私は、いつしかそんな彼に心惹かれるようになっていた。
彼と出会ったのは、海を見下ろす丘の小さな展望台。
強い風と野生の馬と雄大な景色で知られるこの岬も、
コートの襟を立てるこの季節には人影もまばら。
日向で寄り添うように、馬が草を食んでいる。
「よしこ。早く。こっちこっち。」
いっしょにドライブに来た友人が、崖っぷちに頼りなく建てられたフェンスの所から
呼びかける。
おそるおそる近づいた私の目に飛び込んできた景色に、
思わず感動の声を上げそうに
なる。
はるか足元には豪快に砕ける波と、
それを音も無く包み込む海がキラキラと限りなく広がっていた。
「あっ」
突然海から吹き上げた風に私の帽子が飛ばされて転がった先は、
家族で来ていた彼の目の前。
彼はフェンスから身を乗り出すようにして帽子を捕まえてくれた。
「すみません。ありがとうございます。」
「海に飛ばされなくて良かったね。」
その時、にこやかに微笑んで帽子を差し出す彼の目には、何故か悲しげな光が宿って
いて、
その後もしばらく気になっていた。
彼と付き合うようになって約3年、今でも週末には必ず父親に面会にやって来る。
彼とのデートも、もっぱら週末の海岸。
「デートは面会のついでなの?」なんて彼を困らせたこともあったけど、
きっかけになった彼の父親もリハビリのおかげでかなり回復し、
年末には自宅での療養生活に戻れそうな様子。
父親の入所当時は、深い悲しみと施設に対するくらいイメージのために、
歳はとりたく無いと暗い顔で話していた彼も、
最近では施設の仲間たちと明るく過ごす父親を見て嬉しそうな表情を浮かべる。
そんな彼の目からは、あのときの悲しげな光はもうすっかり無くなっている。
「みんな楽しそうだね」
彼はそう言ってゆっくり私のほうを振り返った。
「一緒に歳をとらないか?」
「えっ」
聞き取れなかった私に、今度は大きな声でもう一度
「一緒に歳をとらないか」
と言った。
私は静かにうなずいてそれに答えた。
すると、突然誰からとも無く拍手が起こり、
瞬く間に部屋全体にこだました。
そして部屋の端には心から嬉しそう私たちを祝福する彼の父親姿があった。